取材班による現地レポート

安全確保とアクセス復旧のために~熊野町長が振り返る「あの日」

2019.07.16

古くから、筆づくりの技が受け継がれてきた「筆の都」広島県熊野町。2018年は、熊野町制100年の節目。町を挙げて、さまざまな記念イベントが予定されていた。

そんな祝賀ムードの中で起こった平成30年7月豪雨。熊野町内は、死者12名、一部損壊を含む建物被害153戸、土砂災害約70件と、大きな被害に見舞われた(2018年9月14日現在)。

発災から1年。三村裕史熊野町長に今日までを振り返ってもらった。

 

──発災直後の町内の様子について教えてください。

結果的に12名の尊い命が失われましたが、発災直後は「安否不明者は誰か」「何人が行方不明なのか」が分からない状態でした。真っ先に安否確認を行いました。すぐに自衛隊や県、消防関係者の派遣を要請しました。

約150名の職員もフル稼働し、すぐさま町内10カ所の避難所を開設。そこに職員が張り付いて運営にあたりました。

被害の大きかった川角地区・大原ハイツに近い町民体育館には発災直後に約100人が、町内では翌日の朝5時半には1,053人が避難所に身を寄せました。その後、安全が確認された地域の人たちは徐々に帰宅しましたが、被害の大きかった大原ハイツではしばらく避難指示が継続したため、9月上旬まで避難所生活を余儀なくされました。

水道や電気といったライフラインが早期に復旧できたことは、幸いだったと思います。

同時に、二次被害を防ぐための危険箇所の把握にも努めました。町内の大きなため池が決壊するおそれがあったため、すぐに上空写真での確認も始めました。

 

──発災直後、広島熊野道路は、不通が続く広島市や呉市、東広島市を結ぶ唯一の代替ルートとなりました。道路の復旧について教えてください。 

道路の復旧にはとにかく力を注いで頂きました。幹線道路である国道2号、31号、山陽自動車道、広島呉道路は通行止め。呉市や東広島市から広島市内へとつながる広島熊野道路は、それらの唯一のルートになり、一点に集中しました。

発災直後、自衛隊に動いてもらえる状態でしたので、まずは不通になっていた熊野トンネルについて調査してもらいました。トンネルの入り口は両方がふさがっていましたが、実はトンネルの中は土砂の流出ではなく出水していると判明。7日午前には「片側通行が可能」との連絡がありました。そこで、すぐに緊急車両を通すことを要請しました。その後に「通行可能になった」との連絡が入ってきたとき、一瞬「どうすべきか」と迷いました。あと6時間くらいは緊急車両優先にすべきではないか。被害の大きかった大原ハイツには、依然安否不明者がおられたので自衛隊や消防関係車両を一刻も早く通したい、と。しかし、一方で、制限をかけ続けると、町外にいる熊野町民も、町内にいる帰宅困難者も動けません。私は通行車両拡大要請の決断をし、7日午前11時に広島熊野道路の一般通行が可能となり、通常は有料のところを無料開放することにもなりました。

それでも、周辺道路の寸断や広島市内まで片道4時間以上かかる大渋滞もあり、物流はストップ。発災から1週間程、熊野町内のコンビニやスーパーには物資の配送が遅れ、品薄状態でした。発災から4日後には湯崎県知事がヘリで視察に来られ、すぐに物資の要請を行いました。復旧に関し、自衛隊、県、消防関係者など多くの協力に感謝しています。

 

──被害の大きかった川角地区・大原ハイツの被災状況と、現在まで行ってきた安全対策についてはいかがでしょうか?

多くの犠牲者が出てしまった大原ハイツでは、最後の行方不明者が見つかった16日以降、重機を入れての土砂撤去作業が始まりました。昨年は台風が4回通過。「もう1回雨が降ったら土砂崩れを起こす可能性がある」と、大原地区は長い間、避難指示が継続しました。

大原ハイツは、6日の20時頃に土石流が起こり、約50人の住民が立ち往生となりました。土砂で避難路がふさがれて、車両も人も出ることも入ることもできないという事態に陥りました。翌朝までその場にとどまってもらうか、地域の人にとっては馴染みのある細い、土砂崩れを起こしている遊歩道を通って避難してもらうか、迷いました。二次災害のことも頭をよぎりますし、ひざ上まで土砂が堆積している中、夜の避難は危険も伴うからです。しかし、現地に向かった消防団員たちから「避難させましょう」と連絡があり、23時から0時頃に避難を開始しました。

後に、避難場所である町民体育館へ抜ける避難用の仮設道路を作るよう指示しました。同時に山腹からの落石による二次災害を防止する安全対策工事も着手しています。

6月24日、新たに完成した大原ハイツ避難路が通行可能となりました。

新たに完成した避難道路。(画像提供:熊野町)

 

──今後に向けた具体的な取り組みについて教えてください。

この1年で新たに、雨量計を町内5カ所に設置し、防災アプリで確認できるようにしました。災害時に活用できる防災無線の更新に併せ、相互通信等の多様な方法による伝達手段の導入を考えています。災害直後、臨時災害放送局「くまのちょうさいがいエフエム」を開局しました。災害時の混乱では、情報発信に混乱や見落としもありますので、今後は自動的な情報発信も行っていきたいと考えます。

戸別受信機については、聞こえにくいエリアがあるという課題がありますが、高齢者・単独世帯・要支援者には必ず設置したいと絞り込みをしているところです。

 

──災害から一年が経過しました。町民の災害に対する意識の変化を、どんなところに感じていらっしゃいますか?

熊野町に、災害による犠牲者が出たのは昭和20年9月『枕崎台風』以来です。行政にも町民にも危機感がなかったのは事実ではないでしょうか。2014年に広島市で起きた平成26年8月豪雨をもっと教訓とすべきだったのです。ただ、身近に起こらないとなかなか自分事として考えられないのも事実。現在、町内では防災意識が高まり、町民それぞれが真剣に考えてくれていると感じます。「明日は我が身」という意識を持って、地域ごとに避難訓練を行っておられる。自主防災会も、現実に即した強固なものとなってきています。その意識をさらに浸透させ周知徹底をはかるために、私自身も「ミニ講演会」で地域に出向き、お話させてもらうこともあります。2年に一度開催される14地区の「地域懇談会」でも災害をテーマに話し合う予定です。

今は町民の皆さんに「土砂災害にだけ備えるように」と伝えています。まずは土砂災害。それに慣れてきたら地震に対応していこうではないか、と。何もかも、全部一度にはできません。再び起こりうる土砂災害に備え、自主防災組織の設立と運営、避難訓練の実施等、できる限りの支援を行っていく所存です。

2021年完成予定の熊野町東部地域防災センター(仮称)の模型。平時は地域コミュニティーセンター、非常時は防災センター(指定避難所)として機能する。

 

平成30年7月豪雨から1年を迎えるにあたって(熊野町長 三村 裕史)

 

 

いまできること取材班
取材・文 門田聖子(ぶるぼん企画室)
写真 堀行丈治(ぶるぼん企画室)

「平成30年7月豪雨から一年 復興二年目のいまできること」特集ページ

一覧へ戻る